2011年5月15日 星期日

日本大震災-----普代村防波堤







  日本大震災,遭受到海嘯帶來毁滅性災害的三陸沿岸城鎮中,位於岩手縣北部的普代村,因為受到高逾15米的防波堤和水閘的守護而出現零死亡奇跡。普代村在這次大災難中之所以能平安無事,最主要是當年的村長在各方的反對聲音下,堅持要建15米以上的防波堤。

當年村長堅持建造
《讀賣新聞》報道,岩手縣宮古市田老地區十米高的防波堤被稱為「萬里長城」,所以普代村在規劃防波堤和水閘時曾受到許多人批評,認為「十五米太高了」,但當時的村長和村幸得指出,1896年明治三陸海嘯和1933年昭和三陸海嘯造成439人死亡,故堅持要建高。
普代村在1967年耗資5800萬日圓,建造了15.5米高,155米長的太田名部防波堤,後再斥資35億日圓在1984年建成15.5米高,205米長的普代水閘,守護著這個約三千人口的漁村。
上月海嘯來襲時,在太田名部漁港經營飲食店的太田定治還跑到防波堤上,眼看巨大海嘯把整個港口吞沒了,但在防波堤前被攔了下來,堤上的太田定治和約百名在村內避難的港口工作人員連腳都沒有沾濕。
普代村防波堤外的六個漁港已全部損毀,村長深渡宏說:「先人的防災意識拯救了我們的性命,現在的首要任務是進行災後復原工作,再向沿岸城鎮伸出援手。」

岩手縣普代村「0死亡奇蹟」 只因村長堅蓋15公尺防波堤
日本東北部9.0地震帶來駭人海嘯,將岩手縣的臨海城鎮逐一吞沒,其中普代村雖位於災情最慘重的三陸地區,卻能夠逃過一劫,且至4月3日止都沒有傳出村民傷亡的消息;這個「0死亡奇蹟」不只出於幸運,最重要的原因,還是過去村長堅持要築出一道15公尺高的防坡堤及水門。

據《讀賣新聞》(Yomiuri)報導,普代村當初在規劃防坡堤與水門時,曾受到眾人批評,大家都認為「15公尺太高了」;不過當時的村長和村幸得不肯讓步,稱「明治時期發生過大海嘯」,絕對有建高的必要。於是在1967年,岩手縣投入5800萬日圓建造普代村防坡堤,1984年再花35億圓蓋水門。

據了解,普代村在1896年的明治三陸海嘯、1933年的昭和三陸海嘯中共有439名犧牲者,當時的海嘯就高達15公尺,因此和村村長才會堅持主張,建造一道15公尺高、155公尺長的防波堤。

今年3月11日地震發生後,在普代村經營餐飲生意的太田定治還特地跑到防波堤上,看著巨大海嘯襲來;當海港被吞沒的時候,海水卻在防波堤前面停下來,後方避難的100多名港口工作人員連腳都沒被浸濕。太田說,如果沒有這個防波堤,大家都沒命了。

目前岩手縣失蹤、死亡人數已超過8000人;有「萬里長城」(10公尺高防波堤)守護的宮古市田老地區也有數百人死亡、下落不明。普代村現任村長深渡宏說:「雖然防波堤外6個漁港全數毀損,但先人的防災意識卻拯救了我們的性命,現在正努力進行災後復原的工作。」

明治の教訓、15m堤防・水門が村守る…岩手
津波で壊滅的な被害を受けた三陸沿岸の中で、岩手県北部にある 普代 ( ふだい ) 村を高さ15メートルを超える防潮堤と水門が守った。
 村内での死者数はゼロ(3日現在)。計画時に「高すぎる」と批判を浴びたが、当時の村長が「15メートル以上」と譲らなかった。

 「これがなかったら、みんなの命もなかった」。 太田名部 ( おおたなべ ) 漁港で飲食店を営む太田定治さん(63)は高さ15・5メートル、全長155メートルの太田名部防潮堤を見上げながら話した。

 津波が襲った先月11日、店にいた太田さんは防潮堤に駆け上った。ほどなく巨大な波が港のすべてをのみ込んだが、防潮堤が食い止めてくれた。堤の上には太田さんら港内で働く約100人が避難したが、足もとがぬれることもなかった。

 村は、昆布やワカメの養殖が主な産業の漁村で、人口約3000人は県内の自治体で最も少ない。海に近く狭あいな普代、太田名部両地区に約1500人が暮らし、残る村人は高台で生活している。普代地区でも高さ15・5メートル、全長205メートルの普代水門が津波をはね返した。

 防潮堤は1967年に県が5800万円をかけ、水門も84年にやはり35億円を投じて完成した。既に一部が完成し60年にチリ地震津波を防ぎ、「万里の長城」と呼ばれた同県宮古市 田老 ( たろう ) 地区の防潮堤(高さ10メートル)を大きく上回る計画は当初、批判を浴びた。

 村は1896年の明治三陸津波と1933年の昭和三陸津波で計439人の犠牲者を出した。当時の和村幸得村長(故人)が「15メートル以上」を主張した。「明治に15メートルの波が来た」という言い伝えが、村長の頭から離れなかったのだという。

 今回の津波で、宮古市田老地区は防潮堤が波にのまれ、数百人の死者・不明者を出した。岩手県全体で死者・行方不明者は8000人を超えた。

 普代村も防潮堤の外にある6か所の漁港は壊滅状態となり、船の様子を見に行った男性1人が行方不明になっている。深渡宏村長(70)は「先人の津波防災にかける熱意が村民を救った。まず村の完全復旧を急ぎ、沿岸に救いの手を伸ばす」と語った。

2011年4月3日22時05分  読売新聞)

明治の教訓、15m堤防・水門が村守る…岩手
岩手県普代村に設けた防潮水門などが東日本大震災で効果を発揮。同村の中心部や集落を大津波から守った。2011年3月30日時点で行方不明者は1人出ているものの、死亡者はゼロ。住宅への浸水被害も出ていない。

 三陸海岸に面した普代村は、普代川に沿って中心部を形成している。1896年に発生した明治三陸大津波では、1000人以上の死者や行方不明者を出している。


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3月20日午後3時57分に撮影した普代水門。下流側からの様子(写真:下も普代村)
 この明治三陸大津波を対象に、普代川の河口から約300m上流に建設したのが普代水門。水門の高さは15.5mで、長さは約200mとなっている。岩手県が高潮対策事業の一環で総事業費35億6000万円をかけて建設した。完成したのは1984年。

 普代水門は遠隔操作で水門の開閉をできるようになっているが、操作中に地震の影響で停電。一部を久慈消防本部の職員が手動で操作して、津波の到達前に水門を閉めた。

 津波は到達時に水門を越えたものの、水門から約200m上流付近で停止。水門の上流側に設けた管理用の橋が破損したが、住宅などに浸水の被害はなかった。

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普代水門から見た下流側の様子。3月14日午後1時22分に撮影

 さらに同村の太田名部地区では、太田名部防潮堤が効果を発揮した。同防潮堤は高さが15.5mで、長さが約130m。1970年に完成した。津波は防潮堤の高さ約14mの位置で止まり、背後の集落に被害はなかった。

 普代村では住宅への浸水被害はなかったものの、水門や防潮堤の下流側で水産加工場が全壊するなど、漁業施設に大きな被害が出ている。行方不明となっている1人について同村は、「船を心配して海岸側に向かったときに被災したのかもしれない」と話している。

(フリーライター 山崎一邦)





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